02-4.エスノメソドロジーの視点で捉えた「心」とは

  1. そもそも「エスノメソドロジー」とは?
  2. エスノメソドロジーで用いられる“手法”
  3. エスノメソドロジーが明らかにしようとしていること
  4. エスノメソドロジーの視点で捉えた「心」とは
  5. 今後の展望

「潜在的な意識」というと、かなり人工物的なにおいがするようにおもうんです。

ーエスノメソドロジーの『相互行為における私たちが自覚していない方法論があって、しかも人間自身の意志ではなくマシナリーのようなものが会話を構成している』という考え方は、私たちが日ごろ思っている常識のようなものとは違っていて、とても刺激的です。
一方で、私たちはマーケティングや商品開発でユーザーの心理を理解しようとしたとき「深層心理」や「潜在ニーズ」という概念を用いて『人の言動は本人も意識していない無意識に動機づけられている』というモデルを利用することがよくあります。
エスノメソドロジー的視点では、人の「心」というのはどこに、どのように存在していると捉えているのでしょうか。

臨床心理学(ユング派)が捉える「心の層構造」

西阪仰氏(以下敬称略):私も「心と行為」という本を書いていますが、心ということ自体を否定する必要は全然ないと思うんです。ただ「潜在意識」みたいな話になると、ちょっと違う話になるかなという気がします。心って実体化されやすいと思うんです。脳科学が発展する前提として、そもそも心は人間の中のどこかの部位に特定化されるような形のあるものであって、それがどこかとした時にとりあえず脳にあって、だから脳をみれば人間の心理は解明される、というのが心理学から認知科学への一つの流れだったと思います。でも、そもそもそういうものとして心があると考えること自体がおかしいのではないか、というようなことを考えていたんです。

ー普段私たちは、「認識」というのは純粋に自分の内側で起きているプロセスと考えていますが…。

西阪:『何かを覚えている』とか、『何かを見た』とか、心的表現っていくつかありますよね。これはヴィドゲンシュタイン(ルートヴィヒ・ヴィドゲンシュタイン)が言っていることですが、心を現わす様々な名詞、例えば「理解」や「解釈」という名詞が、例えば「ペン」という名詞がこういうもの(ペン)を指し示すのと同じように、モノではないにしても何かを指しているように捉えがちになる。けれど、そもそも言葉がどういうふうに働いているのかということを考えると、ちょっと違うように見えてくるのではないかと。実際に相互行為(会話など)の中で、『何かを見た』と言葉として伝えることはなくても、お互いに『相手が何かを見た』ということを前提に振舞う様子を捉えることはできるでしょう。例えば、『あっ、○○が動いた』と何かの場面を見ながら言うとかですね。その時に『相手が○○を見ている』という判断が、どのようになされるのかを考えると、「見る」ということの捉え方が『脳味噌を分解すれば分かる』ということとはちょっと違うこととして理解できるのではないでしょうか。

ー実際に自分では見ていない、また「見た」と聞いていない人が「見る」ということを会話の前提として無自覚に共有できているということですね。そうすると「見る」という言葉が何を指しているのか、何をしていることなのか分からなくなってきました。

西阪:脳がなければ知覚もないので別に脳を否定するわけではないのですが、『人間が何かを見る』という現象自体は脳の働きではありません。脳はそういう現象を支える物質的基盤と考えられます。「見る」ということが実際にどういうものとして人々に扱われているのかを考えると、「見る」ことの社会性みたいなことも見えてくるんじゃないかと思うんです。例えば、人の顔を見る時にはその人の唇とか鼻とか眉毛とかいろいろなものも、網膜には映っている。でも、私たちは、『さっき○○さんにお会いしました』とは言うけど、『さっき○○さんの眉毛を見ました』とは言わないですよね。そうした時に見ているのは、網膜に映った何かではありません。「見る」ということは、その時の社会的な状況や活動との関連のなかでのみ意味を持ちます。


記憶も同じだと思います。ある意味では、頭の中には山のようにいろいろなことがストックされているわけですが、その中であえて憶えていることができることは、ものすごく限定されています。例えば、『私は今でもまだ日本語を覚えています』とは言いませんよね。一方、『ドイツ語をまだ覚えている』とは言えます。つまり、脳内のどこかになにかがストックされているとしても、日本語を第一言語としているかぎり、日本語を覚えていますなんて言わないわけです。そうすると、「記憶」という言葉の働き方も、社会的なコンテクストに依存していることが分かります。

ー「見る」ということや「覚えている」ということが、単に自分自身の内側で完結するものではなく、人と人との相互行為まで含めて捉えないといけない、ということですね。そうすると、臨床心理学で定義される「深層心理」や「潜在意識」というものはどうなるのでしょうか。

西阪:会話分析でも、例えば普段「気づかずに」順番交代のルールに従っているという言い方をすることがあります。言語に関する様々な約束事もほとんど気づいていないですよね。けれど、この場合の「気づかずに」というのは、フロイトにしてもユングにしてもその精神分析派が「無意識」と呼ぶものとはかなり違います。例えば、助詞の「に」の用法を言ってくださいと言われても、すべては言えない。しかし、私たちは助詞の「に」を難なく使っている。でも、それを無意識に使っていると呼ぶのはすごく抵抗があるんです。だって、言われれば『ああ、そういう用法が確かにありますね』って分かるじゃないですか。でも、精神分析派のいう無意識は、指摘されても本人には分からなかったりしますよね。例えば、『あなたは無意識のうちに自分の母親を愛してるんですよ』とか、『母親に性的欲望を持ってるんですよ』とか言われても、たいていの人は否定する。そういう意味での「無意識」は、私たちのいう「気づかずに」あるいは「無自覚に」ということとは、まったく違います。そういう意味で、精神分析の「無意識」というのは、何かすごく人工物的な感じがしてしまうんです。モデルとしては分からなくもないし、それで実際にノイローゼの方が治ったとかいうのであれば、その概念のツールとして有効性を否定するつもりは全然ないのですが。

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